これはキャッシュです >> 最新
クリエイティブメソッド MEMO

役に立つ考え方などをメモ。

タイトル
データ
内容
文章種別 放映、上映 書籍、記事 お言葉 その他
投稿者:

ヒップ ヒップ - アメリカにおけるかっこよさの系譜学、ジョン・リーランド著 2010年8月18日(水) 16時01分 ( 投稿者:tog )

jazzをやっている人からすればビバップは古典という印所が濃い。だが、当時においてビバップは革新的で反ポピュラーという攻めの音楽だった。現状に飽き足らず、新しさを追い求める姿勢。戦いである。知らない間に牙を抜かれ去勢されていることに気付かなくてはいけないと本当に思う。いつの時代も同じなんだなということがわかる。不満を行動に変えるべきなのだ、いつの時代も。

--- P171より抜粋 ---
詩人・小説家のギルバート・ソレンティーノは、バップ初期のニューヨークを描写しながら、知的優越性の香りを想起している

「ビバップはわれわれを完全に切り離し、われわれに絶大な満足感をもたらした。それは「ニガー・ミュージック」として猛烈にけなされさえしていたが、どう思われようとまるで(その音楽が)気にしていないことは、音痴の耳にすら明らかだった。・・・それはおそらく、現在をも含め、歴史上のほかのどの時代にも類を見ない、絶対的に非=ポピュラーな音楽だった。そしてその支持者たちはカルトを形成したのだが、このカルトはたぶん、まがい物にうんざりしていた若者たちを、われわれの時代のどの知的生活における他のどんな勢力よりも結集させたのである。

--- 抜粋ここまで ---



文福茶釜 細野晴臣、平凡社、4-582-83391-1、2008年6月発行 2008年8月26日(火) 19時57分 ( 投稿者:tog )

最近の若者、20代あたりの子たちは純粋で真剣で、ピュアだし、さまざまなことを吸収し成長できる土壌を自らの体と脳に持ち合わせていると思うが、今の時代があまりに悪意に満ちているので、閉ざさざるを得ないし、悪意に見えるが実は必要な情報にさえも傷ついてしまい、得ることができずにいるように見える。

思えば、私らが若い頃は周囲が本当に善意に満ちていて、育てようとする仕組みがあちこちにあふれていた。BASICなんてその最たるものだった。頑張れば受け止めてくれる社会、つまり大人が居た。最近ではトランジスタ技術(CQ出版)くらいだろうか

では、今、
自分で生きていかなければならないとして、毒の中の貴重鉱物をどう見極め抽出するか、という方法、これが実は大人でさえわからない。ネットが最たるもので、これを食べておけば将来役に立つよ、という情報が選別されることなく、いい悪いもそのままに大量に並んでいるだけだ。

弱肉強食の世である、ということを覚悟した上でどう生きているか考えなくちゃいけないわけだ。
良い人に会えたらラッキー、助けてもらえたらラッキー、くらいの心持がちょうどいいのではないだろうか。
かならずよき文化はあるし成功例もあるし自分にとって大事なる人はいるわけだが、それは与えられないよ、ということ。(tog)


--------- P66より抜粋

自分の意志でしか 1
今の人間のあり方ってきついと思うの。点でしか存在できないから、もろになんでも自分でかぶっちゃうんだよね。メディアからも個人がターゲットにされる。具体的な例をいうと、昔の広告宣伝っていうのは、家族に対して、ホームに対してなされていた。家庭という単位。それが崩壊したせいで個人に向けられてくる。それはとてもキツイことだなと思う。
うまく言えないけど、自分の意志でしか生きていけないっていうかな。アフリカなんかに凄まじい地域があるじゃない、虐殺とか飢餓とか。そういう場所で子どもたちが放り出されてひとりで生きていくんだけど、その子どもたちは自分で自分を面倒みて生きていくしかないわけでしょ。あらゆることが自分次第で、そこにしか先がないんだという状況。それと同じようなことが、ものすごくわかりにくいかたちで日本にもある。つまり、ほったらかしにされているんだよ。だから責任をそれぞれ自分で負わなきゃいけない。ところがそのことがよく見えないから、どうしていいかわからない。
もっと状況が差し迫って日本人が難民化したら、もっとはっきりすると思うけどね。そうじゃないから今はまだなんとなく過ごしていけるけれど、でも根っこにある問題ってのはそういうこと。単純なんだよ。アフリカのような場所と変わらない状況が日本にはあって、そこで生きていこうとするならば、自分を助けるのは自分しかいないっていうことを知っておかないといけない。

自分の意志でしか 2
「自分の意志でしか生きていけない」ということは、逆に言えば他人の意志、たとえば家族とか、そういうものが崩壊しちゃってるってことでしょ。家族や社会のいうことに従っていれば、むやみに自分のことばかりを考えないでも生きていけるという時代が日本にはかつてあった。江戸時代なんかそうだったわけだ。コミュニティが生き生きしていたから、人と人が助け合える時代だったんだね。でもそれは努力して勝ち得たものじゃないから時代とともになくなっちゃうんだよ。今はそれを個人で勝ち得ないダメという風になってしまった。過酷な時代だよ。
--- 昔のコミュニティには、そのコミュニティ独特の「不二一体」があったということですよね。ところが今にはない。一方で、さっきのアフリカの子どもたちについて言えば、そこにはもはや生存本能のみしかないという意味で、また別の「不二一体」があるということでもあるかなと
そうかもしれない。動物はまさに「不二一体」だから。動物は今なおそういう状態を持っているけれど、人間は持っていない。そのことをネイティブ・アメリカンの人たちや、古代の人たちはちゃんと知っていたんだよ。「自然界の輪」って言っているけれども、そこに人間は参加できていないんだ、と。生まれながらに疎外されている。だからこそ、努力して入っていかなきゃいけない。そのことを昔の人間はちゃんと知っていた。たしかに、人間が社会をつくって人間同士はうまくいっていたんだよ、それが江戸時代かも知れない。そこにはきっと江戸時代ならではの「輪」があったんだよ。人間が生きていくための、大きな「輪」がね。だけどのその「輪」は、時代によって消えちゃうものだからね。けれども動物たちのつくっている自然界の輪は地球規模のものだから、ちょっとやそっとじゃなくならない。ところが、人間がそれを今壊そうとしている。本当は人間もその輪の中に入っていかなきゃいけない、参加しなきゃいけないのに。でも、そのためにはかなりの努力をしないといけないんだ。そのことははっきりしている。そういう教えとして残っている。その教えを参考にして守らなきゃきけないんだ。動物を助けようなんて、ピントがずれた話なんだよ。人間は、今ある文化的な習慣を全部捨てなきゃならないかもしれない。「輪」の中に入るためには、それくらい大変なことを人間はやらないといけないのかも知れない。

ヨロイカブト
今の若者の特徴のひとつは、自分を守りすぎてコミュニケーションを遮断しちゃうってことだと思う。コミュニケーションの回路を開けば、必然的に悪いニュースも入ってくる。これはしょうがないことなんだよ。でも、それを閉じちゃうと私小説の世界に入っていくしかない。今の若い人の心って柔らかくて弱いんだろうね。キレイなんだと思う。ピュアでね。だからこそ守らないと崩壊しちゃう。だから回りを固めちゃう。ヨロイカブトで。そうするとだんだん中身も固まっちゃうんだよ。だから余計用心深くなっていっちゃう。でも、それは本当は危険なことなんだよね。

--------- 抜粋ここまで


「野口晴哉・整体入門」 野口晴哉著、東都書房 昭和43年7月20日発行 2006年6月26日(月) 17時11分 ( 投稿者:tog )

ものごとの判断の基準とは、やってみた結果、である。いかに理屈でそれっぽくても、結果がでなければ、それは屁理屈であるからだ。(tog)

--- P45より抜粋 ---
よく「健康にしてもらいたい」という人がおりますけれども、健康というものは自分で産んでいかなければならない。人からもらうものではない。自分で運動を調節して自分で作っていく。自分の生活の反映が今の健康なのです。自分の体の使い方の結果が今の健康である。異常なら自分の使い方を改めなければならない。使い方を改めるのは頭で考えてわからない面があるが、人間の体には意識しないでバランスをとる要求があります。ご飯を食べるにしても体に必要な時はうまいし、必要のない時はうまくない。働いても調整の必要な時は快い。ちょうどよければ、暴れたあとでもそれが鬱散に約立って快い。
そういうように、どんなことがあるにしても、みんな感覚があるし要求がある。入浴しても疲れた時は熱い湯の方が快い。疲れない時はぬるい湯の方が快い。体も古くなってくると入浴の温度も高まってくる。高くしないと快くない。ちょうどよい、ということは快いという「快」という感じで現われてくる。体が「快」と感じる方向に動いていれば健康になれるし、快という方向に動くようにいつの間にか無意識に方向づけられているので、それに逆らうと不快になる、疲れる、だるくなる、眠くなる、満腹する、といったように、みんな不愉快なことが沢山起こってくる。ちょうどいい時はいつでも快い。
だから人間は快い方向に動いていれば健康になるし、健康になればどういうことをやっても快くなる。そして、その快いという方向に逆らわないようにさえしていれば自然に丈夫になっていく。
それを意識で「良薬口に苦し」というようなことを考えてしまう。それは間違っています。頭を通さないで、意識以前の快いをそのまま感じて、それを行動につながるように生活すれば、人間は自然い丈夫になるのですが、意識が発達しすぎるとそれが難しい。
そこで意識を一旦閉じて活元運動を練習して、そうして自分の体の無意識の運動が活元運動によっていろいろ動けるように訓練されて、自由に動けるようになることが望ましい。「整体協会」の道場では、毎月活元運動をお教えしておりますが、それは、これをやると病気が治るとか、健康になるとか、そういう意味でお教えするのではない。整体協会でやっておりますのは、錐体外路系運動の訓練をするためとして、活元運動をお教えするのです。
--- 抜粋ここまで ---

(注)整体協会:筆者が生前主宰していた道場
   錐体外路系運動: 意識しないで勝手に体が反応してしまう動き。痛いと手を当てる、熱いとパッと手を放す、など、体に対する危険に対して体がもっている防衛のための動き。

--- 追記
体が快く感じる、という反応が正しくあるためには、偽物に注意しなければならない。
たとえば、カロリーが少ないが甘い砂糖、とか、調味料、とかだ。体は甘いものを欲しがっているのに、甘く感じるダミーを与えても体を騙しているだけだ。つまり、食べたいもの、が偽物であった場合、健康に反していくことになるのだ。(tog)



「憲法とはなにか」 長谷部恭男著、岩波新書、ISBN 4004310024 2006年6月26日(月) 17時05分 ( 投稿者:tog )

創作とは、自分の今持ち合わせている価値観以外の、他世界にある何か、に気付き自分に取り込む作業である。つまり、自らの価値観を大事にしつつ、他の価値観が持つ価値観をも食らい我が身の一部にしていく過程だと言える。

つまり、そのためには、他の価値観がどうであれ揺るがないよう、自らの価値観を補強し高めていくことが必要となる。他を批判する、ということは脅威を感じている、ということに他ならないのだ(かっこ悪い)。すべてを凌駕(皆殺し)できないなら、キニイラナイ人々とうまくやっていくことを考えることが自らの遺伝子のしたたかな死活となるのだ。(tog)


--- P8 より抜粋 ---
ドンキホーテやハムレットは、自ら望んで、価値観の多元化した世界を生きてきたわけではない。それはいかんともし難い、与えられた事実である。

できることなら、彼らも、何が真実で、何が正義かについて思い悩む必要のない、たとえば「遠山の金さん」や「水戸黄門」の描くような世界を生きることを望んだはずである。(略)しかし近代世界は、もはやそうした生き方を許さない。
(略)
異なる価値観・世界観は、宗教が典型的にそうであるように、互いに比較不能である。

しかも、各人にとって自分の宗教は、自らの生きる意味、宇宙の存在する意味を与えてくれる、かけがえのないものである。かけがえのないものを信奉する人々が対立すれば、ことは深刻な争いになる。人生の意味、宇宙の意味がかかっている以上、ヨーロッパの宗教戦争がそうであったように、簡単に譲歩するわけにはいかず、対立は血なまぐさいものとなりがちである。

こうした比較不能な価値観の対立による紛争は、二一世紀初頭の今も、いまだに世界各国で発生している。


しかし、人間らしい生活を送るためには、各自が大切だと思う価値観・世界観の相違にかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そうした枠組みが必要である。立憲主義は、こうした社会生活の枠組みとして、近代ヨーロッパに生まれた。

そのために立憲主義がまず用意する手立ては、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域に区分することである。

私的な領域では、各自がそれぞれ信奉する価値観・世界観に沿って生きる自由が保証される。他方、公的な領域では、そうした考え方の違いにかかわらず、社会のすべてのメンバーに共通する利益を発見し、それを実現する方途を冷静に話し合い、決定することが必要となる。

このように、立憲主義は、多用な考え方を抱く人々の公平な共存をはかるために、生活領域を公と私の二つに区分しようとする。これは、人々に無理を強いる枠組みである。

自分にとって本当に大切な価値観・世界観であれば、自分や仲間だけでなく、社会全体にそれを押し及ぼそうと考えるのが、むしろ自然であろう。しかし、それを認めると血みどろの紛争を再現することになる。

多元化した世界で、自分が本当に大事だと思うことを、政治の仕組みや国家の独占する物理的な力を使って社会全体に及ぼそうとすることは大きな危険と伴う。


価値観の多元化した近代世界で、人々の立場の違いにかかわらず、公平な社会生活の枠組みを構築しようとするならば、立憲主義の考え方に頼らざるを得ない。

特定の価値観・世界観が公共の討議の空間を占拠して、対立する価値の駆逐をはかろうとすれば、そこでの決定は、社会のメンバーに共通する利益を実現するものではありえない。

自分が大切にする価値観を守る自由もない社会では、社会全体の利益のために貢献しようとする志も育つはずがない。公的領域と私的領域の切り分けは、個人の自由を保障するためだけではなく、政治のプロセスがその役割を適正に果たしていくためにも、無くてはならないものである。

--------- 抜粋ここまで



何がイヤなのか見きわめる 「いまやろうと思っていたのに・・・」リタ・エメット著、中井京子訳、光文社、ISBN4-334-96171-1 2004年12月20日(月) 18時56分 ( 投稿者:tog )

この本自体は、グズな子供をどうしつけるか、というメソッド本なのだが、これは自分や組織など、すべてに適用できる。誰だってグズっている状態が好きなわけではないので、解消できればみんなハッピー、という思想なわけだ。
平たく言えば、デバッグ、つまり問題解析とも言える。(tog)

---- P88より抜粋 ----
「何がイヤなのか見きわめる」

大人であれ子どもであれ、大嫌いなことをやらねばならないつらさはたいていの人がわかっています。ついつい先に延ばし、後ろめたさを感じますが、それでもつらい仕事にはなかなか手が着けられません。
第一歩はまず、子どもが先延ばしにしていることについて本人と話し合うことです。特に嫌っている作業をひとつ取り上げ、なぜその仕事がそれほどつらいのか、一緒に解き明かす努力をしましょう。子どもをどこかへ送迎する途中でおしゃべりすれば、身構えた議論のような威圧感はありません。じっくり腰を据え、互いに向かい合い、にらみ合って会話する必要はないのです。車内コミュニケーションで十分です。
問題解決のために子どもたちが自分で答えを見つけられるように励ましてください。自分で考えた解決法であれば子どもたちもやる気を出すでしょう。人は自分のアドバイスやアイディアには文句を言わないものです。
シャノンは六歳の娘エリザベスと公園に散歩に行ったついでに、どうして部屋じゅうに服が散らばっているのか娘に尋ねました。エリザベスがいつもあわてていて、あるべき場所に片付ける時間がないせいだ、とシャノンは思い込んでいました。
ところが、エリザベスと話すうちに、幼い娘にも自分と同じ完璧主義の傾向が現れていると知ってシャノンは驚きました。エリザベスはこう説明したのです。「あんな変なハンガーじゃ服がきれいに掛けられないもの。大嫌い。それに、引出しにしまってもつぶれたり曲がったりするから、やっぱり大嫌い。積み重ねようとしてもきれいにならないし」
娘の欲求不満と、衣類を”きちんと”片付けられないのであれば何もしない、という固い決意をシャノンは初めて知ったのです。
ひととおりエリザベスが不満をぶちまけたところで、シャノンは彼女の散らかった部屋をどうすればいいか娘に尋ねました。冗談やふざけ半分の提案(「ママのクロゼットをちょうだい」)が次々出たあとで、女友達のキャシーがとても素敵なハンガーを持っていて、それなら服がきれいに掛けられるのだとエリザベスは言いました。エリザベスが持っているような変な役立たずのハンガーではない、と。それから、スウェット類は絶対にほかのものと区別しなければいけないので、もっと引き出しが必要だと彼女は断言しました(またもや完璧主義の出番です)
さらに、クロゼットの扉の裏に何か器具を付けて、ベルトやネックレス、ブレスレットを掛けられるようにしなければ、と主張しました。
帰宅すると、シャノンは、地下室に保管してあった、二個の引き出し付きの小型ナイトスタンドをエリザベスに見せました。スウェットの収納にはぴったりだとエリザベスは納得し、その週の後半、エリザベスの部屋に合うようにう母と娘で色を塗りなおしました。少女はこのナイトスタンドに大喜びし、なおかつ、母親に買ってもらった”適切な”(変じゃない)ハンガーにも大満足でした。そして、エリザベスの立派な態度(と、ハンガー代がわずか五ドル九十五セントだったので)のごほうびとして、シャノンはクロゼットの内側にとりつける器具を購入しました。
シャノンによれば、それから数ヶ月、娘は衣類の収納にすばらしい成果を見せ、今もそれは続いているそうです。
---- 抜粋ここまで ----




能力の利息法 「独創力」P114 、糸川英夫、光文社1984 ISBN-4-334-70073-X 2004年12月9日(木) 15時17分 ( 投稿者:tog )

つまり毎日の積み重ね、ということ。やりたくなったらやる、と言って忙殺された結果、人生何にも残っていない、という結果はよくある話なので、それを意識的に避けることが大事。

私の場合はどんなに仕事が忙しくても週一でバンド練は入れている。また、エスカレータと階段があれば迷わず階段を登る。わざわざジムに行くより手軽で確実だ。
山登りと一緒で、何年か経ってみると知らぬ間に高いところにいる自分を知るのだ。つまり、選択できるなら、積み重なる方をとればいいだけ、だ。(tog)

----抜粋 ----
いまの生活はエレベータや車やコンピュータで代表されるように、みずから体を動かしたり、頭を働かせる機会が少なくなっている。
その結果、筋肉も情動も思考も許容応力が決まってしまい、一〇パーセントアップのロード(過重)がかかると、たちまち対応しきれなくなる。
そこへいくと昔はなんでも自分で考え、行動しなければならなかったので、許容応力は決まっていなかった。毎日の暮らしの中で自然に許容応力が高められていったのである。
この許容応力を高めるにはどうすればいいか。バレーボール監督の松平康隆さんのアイディアを紹介してみよう。
だれでも得意なもの、好きなものは一つや二つ必ず持っている。バレーボールでスパイクの好きな選手がいて、スパイクさえやっていれば機嫌がいい。
「スパイクの練習だけなら何時間くらい続けられる?」
あるとき松平さんはきいてみた。その選手はこう答えた。
「四時間だったら続けられます」
「よし、それなら今日から四時間と三十分、スパイクの練習をしろ」
「わかりました。やってみます」
こうして毎日スパイクの練習を四時間三十分することになった。好きだとはいえ、同じ動作をそれだけの時間繰り返すのである。くたびれて、精も根も尽き果てるだろうし、ばかばかしくて嫌になることもあるだろう。体育館の壁に掛かっている時計の針が目につく。
「あと三十分じゃないか」と思うと、先ほど魔がさしたのがうそのように消えた。時間を惜しむように残りの三十分間、練習に打ち込む。こうしてその選手は、スパイクの練習を四時間三十分できるようになったという。
松平さんは、この”あと三十分”を”能力の利息”と名づけた。実感のこもった命名と独創的な方法だと思う。好きなものに対して、”能力の利息法”を活用すれば、目にみえて効果は上がっていく。よく「何を始めてもすぐに飽きてしまう。やる気を起こすよい方法はないだろうか」という人がいるが、その場合にも効果的な方法だ。
”能力の利息法”を重ねていけば、必ず不得意な分野でも得意な分野に変わっていく。要はスタートの”元金”が大きいか小さいかだけのちがいで、”利息”は確実につくものである。

--------- 抜粋ここまで



始めから最低ラインを引く 「アニメスタイル」、美術出版社、P80より抜粋 2004年11月15日(月) 15時30分 ( 投稿者:tog )

--- 抜粋 ---

小黒 世界で「スゴイ、スゴイ」と言われていた「エヴァンゲリオン」は、コストパフォーマンスからの逆算から出来ている。

庵野 う〜ん。いや、それは、作品の内容を管理するんだったら、当然の事だと思うんですけどね。そのために監督がいるんだろうと思うんです。作品によっては、それはプロデューサーがやる場合があるのかも知れないけど。そこまでやらないとクオリティーが維持できなと思うんです。

小黒 なるほど。

庵野 なんかなぁ・・・何度も言うようだけど、基本的にはアニメって穴の開いた船だから。沈む前に港に着けるかという、それだけなんですよ。そのためには排水作業をどうするかという、ダメージコントロールでしかない。最悪の事態を想定して、それに対処するためのシフトを作っておくだけなんです。まあ、それは組織論の基本でね。アニメの場合、それをあまり考えてない人が多い。
最悪の場合を考えて、ものを作っていかないといけないっていうのは、軍艦の運用と全く同じなんですよ。軍艦というのは、敵の弾が当たって沈むっていうのを前提に作られてますから。できるだけ沈まないようにするにはどうすればいいんだろうというところから始めるのが、軍艦の運用思想だから。それとアニメは同じ。基本的には質がドンドン、下がっていくわけだから、できるだけ質が下がらないようにするためにはどうしたらいいんだろうというのを、発想の原点にするべきなんですよ。途中から質が上がるなんて事は、あり得ない。プラスを考えるより、マイナスにならないための考慮の方が現実的。

小黒 たまたま上がれば、OK。

庵野 最悪のレベルを想定して、そのための絶対防衛線を当初から引いておくべきだし。「ここまでは許容できるけど、そこから落ちたときにはもうダメだ」っていうね。だから、そこにいかないように可能な限りの努力をするっていう事ですね。そういうモノでしかないんですよね。スタッフの配置から、話作りから、そういうのも含めて、画の作り方とかカットの割り方とかね、全部に関して、それがベースになっている。

--------- 抜粋ここまで



能力独創法 「独創力」、糸川英夫、光文社1984 ISBN-4-334-70073-X 2004年11月10日(水) 15時02分 ( 投稿者:tog )

--- 抜粋 ---

@能力創造法@
能力というものは、親からもらうものでもないし、学校からもらうものでもない。自分で創るものなのである。つまり、独創するものなのである。
わたしの入っているバレエ団には、毎年春になると新入生が入ってくる。だいたい小学校三年生が多いが、その子たちに足を上げてごらんというと、十五人に一人は、耳まで足が上がる子がいる。こういう子のお母さんはもう自身満々で、「この子は天才的バレリーナです。生まれたときから足が上がるのだから、訓練すれば、森下洋子さん以上のプリマになれるでしょう」という。
だが、バレエ学校では、努力しないで耳まで上がる足は、二重関節ということで、「ピアノとかエレクトーンをおやりください」と、採用にはならないのである。
六十度くらい上げただけで痛いのを、十年かけてやっと耳まで上げられるようになった足だけが、「白鳥の湖」の舞台に立てるのである。
バレエをご覧になったなら、そのあと楽屋で、出演した女の子たちに「小さいときにどうだったのか」をきいてみるとわかる。体が柔らかかった子なんか、一人もいなくて、むしろ人並みはずれて体がかたかった子なのである。
そういう子が十年かけて一ミリ一ミセンチずつ上げていき、やっと耳まで上がるようになったとき、美が生まれる。それが不思議なことに、初めから耳まで足が上がる子が耳まで上げても、舞台で美しさが出ない。
だからわたしは、能力とは、時間をかけて自分で創るもので、親からもらった才能とか、学校からもらった能力は、役に立たないと思っている。
森下洋子さんがいっていたが、体が弱くて、これではしょうがないということで親にバレエをやらされたのだという。貝谷八百子さんもそうで、骨がまるで細くて、この子は十歳以上生きられないだろうから、せめてバレエでもやって体を鍛えさせようと、バレエの練習を始めさせられたのだそうだ。
つまり、体も柔らかく、プロポーションも最高だからバレリーナになれるのではなく、そういう遺伝子でもらったものでは、むしろバレリーナになる資格がないのである。
わたしの場合、「糸川さんはもともと才能に恵まれていたから」といわれると、冗談じゃないと思う。
わたしは航空科を出たので、飛行機のことは多少習ったが、それ以外はだれにも習っていない。全部、独学、独創である。そのかわり、一ヶ月に四十五冊は本を読んでいる。
もちろん二十四時間本を読んでいるわけにはいかないし、一日のうちで、本当に自分の能力向上に使える時間というのは、せいぜい十分から二十分くらいかもしれない。しかし、その短い時間の間に、どうして向上のための一歩を踏み出すか、それがポイントとなる。
階段を上がるか、上がらないか。階段の下で立っているか、毎日一段ずつ上がっていくかで、十年たったらいるところが全然ちがってくる。
たとえ時間は短くても、階段を一歩上がるのとゼロではたいへんなちがいがある。
紙一枚の厚さというのは、ほとんど測れないくらい薄い。しかし、電話帳を二十冊積んでみれば、背の高さになる。
だから、十分でも二十分でもいいから、決められた階段を上がる。それを続けられれば、ある日、きっと、それまで自分が夢見ていた頂点に立っていると思う。
天才になるという方法は、まさにそのように、自分で階段を上がる方法を独創することなのである。そしてそれを続ける根性と気力といえる。

--- 抜粋ここまで ---



CLEATIVE BBS SYSTEM by TOGLIN SERVER SYSTEMS
* 過去の記録は整理中 *